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BIOGRAPHY

長田トシツグ 〜 Profile

14歳の時に長渕剛を聴いたことと、たまたま親戚のアコースティックギターが家にあったことがきっかけで練習を始める。その頃はハーモニカを吹き、歌を歌いながらギターを弾くフォークスタイルだった。15歳になると布袋寅泰、Van Halen、Extreme、Keziah Jonesを聴いたことをきっかけにエレキギターを弾き始める。高校に進学するとMetalicaやPantera、Loudnessを聴きヘビーメタルに影響を受ける。速弾きに夢中になっていたが、ギタリストが影響を受けたルーツを探っていると、Jimi Hendrix、Buddy Guyに行き着き、自由な演奏やフィーリング、アドリブ、ギターを壊したり燃やすという方法があることを知る。その後Rage Against the MachineやThe Mad Capsule Marketsを聴き、より雑多な音楽志向へと変化していく。時を同じくしてオリジナル曲の制作をダブルカセットテープデッキでオーバーダビングを行っていたが、限界を感じ、タスカムのテープMTRを中古で手に入れ本格的に多重録音を始める。「他人や既存の音楽とは違う新しい音楽が作りたい」と日々実験的な録音をする中で自分の感性だけで作曲することに行き詰まりを感じ、「まずは既存の音楽の仕組みを知らなければ他人と違う音楽は作れない」と悟ったことと、地元でバンド活動をしていても日本の流行歌をやらなければバンドメンバーが集まらないことにフラストレーションが溜まり、音楽専門学校へ行くことを決意する。

高校卒業後、上京。音楽専門学校 国立音楽院に入学。音楽理論やアレンジを学び、「既に既存の音楽は全て理論や実験で完成されており、新しい音楽を作ることはできない」ことを知りショックを受ける。在校中にジャズギタリスト岩谷耕資郎に師事する。岩谷氏の影響もありジャズを聴くようになるが、楽曲アレンジが全て単調に聴こえ好きになれなかったがPat Metheny Groupを勧められ衝撃を受ける。現在までの自分のポップスアレンジに対する影響のほとんどをPat Metheny Groupの楽曲の解析から得る。岩谷氏からは「ギタリストになれ」と言われていたが、ギタリストよりも楽曲制作やシンガーソングライターの方に強く興味があり、卒業後はギターの技術向上よりも作曲やアレンジに力を入れるようになる。

音楽専門学校卒業後の活動は厳しく、特に経済面で苦しむ。当時楽曲制作の中心はコンピューターによるDTMが中心となりつつあり、業界の移行期でもあったため制作用ソフトや音源が現在よりも高価で、それらを揃えるだけで必死にアルバイトをする毎日となり、一時は音楽活動が全くできないほど働いていた。無理が重なり、プロになろうとする焦りも増して、元々から苦しんでいた持病のアトピー性皮膚炎が悪化し、一人暮らしが困難になり止むを得ず帰郷することとなる。結局東京での音楽生活で足跡すら残せなかった。

出雲市に帰郷後、しばらくは治療に専念していたが、プレッシャーから解放され肩の力が抜けたのか、あっという間に体調が良くなった。帰郷してからは音楽をするつもりもなかったので、就職を考え写真館に入社。それまで使い捨てカメラしか使ったことがなかったが、そこからカメラマンとして修行することになる。この写真館に勤めたことでその後出雲市にて音楽で生活することになるきっかけになる出来事が起きる。写真館のスタッフの一人が喫茶店巡りが好きで、撮影の帰りに入った開店したばかりの珈琲店蒼で、ギターをやっていた過去を話したことでマスターに興味を持ってもらい、その3ヶ月後に蒼でライブをすることになった。その時お客さんとして来ていた人々のつながりであれよあれよと音楽仲間が広がり、島根県での演奏活動をするきっかけとなる。そんな中、元よしととひうたのひうた氏からIターンで島根県に移住された白築純のライブに誘ってもらう。白築氏は東京時代のギターの師・岩谷耕資郎とユニットを組んでいた人と分かり意気投合。これをきっかけとしてアツタ楽器に取り計らってもらい、ヤマハPMSギター講師の試験を受けさせてもらえることになる。無事合格後、約5年間勤めた写真館を辞めギタリストへ転身。

もう二度と音楽を仕事として生きていくことを目指すことは無いだろうと思っていたのに、まさか30歳を超えてその夢が叶う。しかも、小学・中学時代の音楽の成績は通信簿で最下点だった自分が音楽を教える立場になるとは思ってもいなかった。しかしミュージシャンとして島根県で活動するとなったは良かったが、演奏の機会はほとんど無く、レッスンの生徒も容易には集まらず、前職で貯めた貯金を切り崩しながらの生活で経済面で苦しむことになる。そんな中でレッスン先のアツタ楽器会長でありトランペッターの熱田修二氏に運転手兼ローディーに使ってもらい、様々なステージを経験させてもらうと同時に経済面でも助けていただいた。更には熱田氏の紹介でサックスプレーヤーの宮本美香氏と知り合い、その後サポートギタリストとして優先的にステージ演奏に使ってもらい、こちらも経済面や演奏面でのアドバイス等で非常に助けていただいた。この間に地域の個人店舗や個人活動の紹介に焦点を当てた活性化活動として「しまねいいとこ」を立ち上げ、楽曲制作の他に前職で培ったカメラのテクニックを用いて動画の制作・YouTubeチャンネルへのアップロード、コンセプト音楽CD「しまねいいとこvol.1」のリリース・Amazonでの販売と、精力的に行なった。無料で紹介動画とオリジナルBGMを発信し、その制作費をCD販売で賄うというコンセプトであったが、世の中の”大人の事情”により拡大できず、現在に至る音楽CDの大量在庫を招くこととなると同時に、制作費が捻出できないことで第2弾のリリースの目処が立たなくなる。ただ、これをきっかけに楽曲制作の依頼もいただけるようになり、島根県立大学出雲キャンパス制作による健康体操「オロリン体操」の音楽担当、浜田よさこい連「美意人」の演舞楽曲の制作等手がけさせていただいた。その他にもイベントの音響オペレーターを頼まれたり、地元ミュージシャンのミュージックビデオの撮影&編集にも携わらせていただいた。

年月は流れ、生活が少し楽になるも、家計の事を考えて何でも引き受けてきたことによる歯車の噛み合わない心境となる。幾つものステージで技術面で要求に答えられないことに苦心し、楽曲制作の面でも「これは長田トシツグでなくてもできるのでは?」という依頼が重なり、不本意な制作で自分の名前が載ることの違和感と、毎年のようにかかる制作に関わるソフトや機材への多額の投資に限界を感じ、「自分にとって音楽とは?」と考えるようになる。生活の為だけにできるような顔をしてステージに立ったり、自分の音楽感を理解されないまま制作に携わるぐらいなら受けない方がよっぽど良いと感じ、ほとんどのサポート演奏と楽曲制作の依頼を、本当に自分が必要とされていない限り断ることにした。それからレッスン中心の生活を送っていたがそんな時、ヤマハの先輩講師である真殿和敏氏より「ステージに立たないミュージシャンになるぐらいなら辞めちまえ!」と激励をいただいたことや、岩谷氏に「ギタリストになれ」と言われた意味がようやく分かってきた。無理してステージに立ったり、誰でもいい仕事を受けなきゃいけないのは、生活のために八方美人になり自分の本当の実力を周りに見せて来なかった自分に原因があった。自分が向き合わなければいけないものは自分自身の力だと思い知らされた。

40歳を前にしてようやく、自分にとっての音楽とは演奏であるという至極当然な答えにたどり着く。同時期に、ありがたいことにレッスンで毎日が忙しくなり、自然とサポート演奏を断らざるを得ない状況になり、自分の実力が一番試され、他人のスケジュールに縛られることの無いソロプレイを中心とした活動をしなければ演奏のステージにさえ立てない状況になる。ギターでの演奏方法を模索する日々を送っていたある日、何の運命なのか、ヤマハの講師として稼働するようになってから生徒に教えるためだけに始めたウクレレに、ギター演奏の根本となるハーモニーの考え方があることに気付く。今までギターを弾いている時に悩んでいたアプローチが、音域の狭いウクレレを弾いたことで幾つもの悩みが解消されていった。そこから一気にウクレレに興味が湧き、まずはウクレレを極めようと今の演奏活動に繋がることになる。現在はウクレレのソロプレーヤーとして、まだ数は少ないが出雲市内のカフェでの定期的なBGM演奏、各種イベントでのステージ演奏に立たせていただいている。その他にも、自身のウクレレの生徒と一緒にコンサートチーム「Makani Makana」を立ち上げ、誰でも楽しめるウクレレの魅力をステージで披露する活動を行なっている。しかしいずれ、ギタープレーヤーとしてSylvain LucやYamandu Cosutaのようなギタリストを目指して実力を上げていこうと考えている。

僕のこれからを見届けていただけたなら幸いです。これからもよろしくお願いいたします。

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